話は変わる。
ブラック・マリアから16年後の1970年3月7日、
LA郊外に住むアレクサンダー夫妻を暴漢が襲う、という事件があった。

その日、朝7時頃に家を出たアレクサンダー氏は、すぐに自宅へと引き返す。本来は夫妻で外出する予定が、出かけ際の口論で妻を置いて来たことが気にかかったためだ。
玄関に入るや否や、居間から飛び出して来た見知らぬ男が氏に体当たりを食らわし、あっという間に逃げ去った。 急いで男を追おうとしたが、氏は左脇の激痛で倒れこんでしまった。
触れると裂傷があり、足元には血で染まったナイフが落ちていた。

痛みをこらえ、なんとか妻のもとに駆け寄ると、大きな外傷もなくベッドで寝ている妻を確認して氏は安堵した。しかし、彼女はそれからずっと眠り続けた。
心的ショックからなのか、原因不明の植物人間状態に陥ってしまったのだ。氏は咄嗟のことで男の顔を見ていなかったが、逃走する犯人の後ろ姿は目に焼き付けていた。
身長185cmくらい、短く刈り込んだ金髪の白人だった、と証言している。

この事件で気にかかるのは、黒い口紅で“自分を抑えきれない”という例のメッセージが壁に書かれていたことである。 しかし当時ブラック・マリアは十数年前にすでに解決した事件であり、一部のマスコミが騒いだくらいでこの事実はさほど重要視されなかった。 結局この犯人も捕まっていない。
「いつか目覚めてくれ、もう一度笑って見せてくれ」と願う氏の献身的な看病の甲斐もなく、
14年後の1984年に氏の妻は永眠した。 彼女の葬儀に足を運んだ際、私は少しだけ氏と言葉を交わした。

「左脇の傷口の焼けるような痛みが、彼女を置き去りにした私のことをずっと責めるのです。
もし妻がもう一度目覚めていたなら『愛してる 今でもまだ愛してる』ただ、そう伝えたかった」
と彼は私の前で泣き崩れた。

時は流れ、2000年代になってDNA鑑定の技術が飛躍的に向上、犯罪捜査の現場でも用いられるようになった。
ブラック・マリアに関する多くの重要な証拠は散逸していたが、私は運良く警察内部の知り合いを通じ(少しばかり金を握らせはしたが)、 アレクサンダー夫妻襲撃時に使用されたナイフのDNA鑑定を依頼することが出来た。 思いがけない収穫は、ナイフからブラック・マリア事件の被害者ヴィヴィアンのDNAが検出されたことだ。半世紀以上前のDNAを見つけ出すことができるほど科学が進歩したことに素直に驚き、感心した。
もし、ブラック・マリア事件が起きた時代にこの技術があったなら、いくつかの謎は簡単に解けていただろうに…。

もっともDNAは、いつヴィヴィアンがナイフに触れたのか?までは教えてくれない。 ナイフがブラック・マリア事件で使われたものと同一だ、とまでは証明できないのだ。
ただ、ブラック・マリアの真犯人はアレクサンダー夫妻を襲った男だったかもしれないという疑惑が一つ増えただけである。

近年になって、ミステリーマニアの間で“ブラック・マリア”について話題に上ることが多くなった。 玄人顔負けの正当派推理から、事件があった1954年6月30日、1970年の3月7日にはアメリカ国内で皆既日食が観測出来たことを持ち出して、 真犯人は“黒い太陽”の魔力に取り憑かれていた、などというオカルトめいた説まである。何にしても“迷宮の住人”が増えることは私にとって心強いことだ。

現在までの調査で私は、ハンク・ワイルド警部のリチャード逮捕はやはり行き過ぎだったのではないか、と考えている。
事件解決の為なら手段を選ばないハンク警部の捜査は、彼のキャリアの後年、問題になったことがある。
さらに情報提供やそれにまつわる金銭授受で地元マスコミとハンクは蜜月だという噂も囁かれ、
今や“MR.JUSTICE”としての彼の栄光の歴史は全て作り物だった、という疑惑にまで発展している。
FBIとの面子争いで手柄を焦った彼が、暴力による自白の強要、さらには証拠や証言の捏造まで行い、 マスコミを操作してリチャードの残虐性を世間に印象付けるよう煽動した、という可能性もゼロではない。
ひょっとすると、証拠となったブレンダの血が付着した新聞は、ハンクがヴィヴィアンの遺留品から一部持ち出して細工・・なんてことも考えられないわけではない。 (マイク捜査官もリチャード逮捕に疑問を投げかけ、事件の再捜査を訴えていたらしい。 しかし事件解決後のハンクの神通力は絶大で、この案件がこれ以上長引くことを快しとしない上層部の後押しも加わり、結局、マイクは任を解かれFBIに戻った。 去り際、浮かれるハンクを横目にマイクは“神は何故裁きの権限を人間に与えたのだろうか?”と溜め息混じりに呟いた、というエピソードもある。)
いくつかの状況はリチャードを限りなくに近づけているが、真っ黒ではない。
疑わしきは罰せずの原則から言えば彼は無罪であろう。

“MR.JUSTICE”は、いかなる正義を武器に人を裁いてきたのか甚だ疑問である。 しかし残念ながら、私が得たどの事実もリチャードがだと証明するまでには至っていない。
無罪無実は違うのだ。

ヴィヴィアンは何故殺されなければならなかったのか?犯人が殺人現場に隠した意味は何か?壁のメッセージは知的人格を飲み込まれ、 本物の殺人モンスターとなってしまうことに抗う犯人の最後の祈りか?リチャードは犯人か、冤罪か?金髪の男が真犯人なのか?別の第三者か? それとも黒い太陽の仕業なのか?

掲げられたいくつもの命題のすべての疑念がゼロとならない限り、私は答えを求め続けるであろう。そう簡単にQ.E.D.とする訳にはいかないのだ。
事件から60年近く経った現在も、ブラック・マリア事件の真相は未だ、闇の中なのである。


2009年8月 私立探偵 クインシー・E・デインズ